陽想

ママは嫌がるだろうけど、ママとパパの名前をこのブログ名にしました

愛おしい子どもたち

子どもが子どもらしくいられる、綺麗な世界がそこにあればいい。

甘えたい時に甘えられて、泣きたい時に泣けて、怒りたい時に怒って、そこに信頼できる親や大人が寄り添ってあげる、それだけで十分だと思う。

私は大人になったばかりだけど、成人して20歳を超えて、もう社会的に、子どもじゃなくなって大人になった、大人にならなければならないと思う。

ただ、相変わらずママの前だけでは、10歳ぐらいの女の子でいさせてもらうけど。

 

私には今年5歳になる妹がいる。17歳差の愛おしい妹。離れて暮らしていて、隣で一緒に過ごす時間は、年に2,3回の帰省の時だけになってしまうけど、いつだって妹の幸せを祈ってる。この子やこの子の世代の子供たちが、ずっと笑って生きていけるように、大人は今の社会を少しでも変えていく義務がある。

 

苦しんでいる時、見て見ぬ振りをする大人になりたくない。苦しみや悩みは結局は自分で解決するしかないのだと思う。だからといって見離したくない。子供の苦しみなんて、大体は大人のせいだから。

 

社会教育学の講義で、定時制高校に通う生徒たちの映像を見た。親の養育が十分でないために、交通費が足らず、夜道を1時間かけて歩いて帰り、学校が無償で配る食料があるから生きていける、と。親の尻拭いばかりしてきた、そう話していた。また別の子は、母親と一緒に過ごした記憶がない、一緒にはいたのだろうけど、そういってリストカットした腕を撫でていた。その子の親は、彼女がこうなった責任は私にある、と言った。責任がある、と言いながら、親は結局責任を取らない。彼女の寂しさは彼女に蓄積されるばかり。いつだって大人は都合よく、「自己責任」という。私はそんな無責任な親や大人を、絶対に許さない。

 

苦しい時は、本当は苦しかったと、涙を流せる居場所がどこかにあればいい。抱きしめて欲しい時、抱きしめてあげる人がどこか一人いてくれれば良い。そんな、愛おしい子供たちの居場所になりたい。

 

ただ、私は決して寂しい思いをしている子供たちを、可哀想だなんて言葉でまとめたくない。まとめない。ただ、どうしようもなく愛おしいだけ。

 

私は愛想がいいわけでも、子供に好かれるタイプでもないけれど、通学路でランドセルを揺らして歩く小学生や、道に広がって歩くちょっと迷惑な中高生が、どうか、幸せであることを、今はこっそり祈っているだけ。

 

いつか私のこの小さな祈りが、、目標が、何年か先に現実になるといいな。